パンの歴史

新約聖書には、たびたびパンは登場する。荒れ野で40日間の試練の間、キリストは何も食べなかったので飢えていた。悪魔が、あなたが神の子なら、石をパンにかえて食べたらいい、と誘惑すると、キリストは「人はパンだけで生きるのではない」と答える。そういうキリストも、自分についてくる群衆の夕食の心配をして、パンの奇跡を行う。たった5つの大麦パンと2匹の魚を5千人の群衆に分け与える。そしてその翌日には「私は天からくだったパン」と宣言する。処刑される前夜、最後の晩餐の日は、たねなしパンの祭りの日であり、キリストはパンをとって感謝してさきに弟子たちに与えて「これは私の体である」という。キリストの生涯の重要なポイントには、必ずパンがあらわれているのだ。キリストの日々は糧であるパンを、精神の糧にたとえてきたわけだが、パンそのものも歴史を追ってみても、パンこそは人間の文化の最良のシンボルといえるのがわかる。特に、古代エジプトでは、パンは人食い人種の人肉の代替食として出発したというだから、まさに人間らしい文化の象徴にちがいない。エジプト神話にでてくる44神のうち、太陽の神、万物の神であるオリシスの妻(穀物の神ーイシス)がパンをつくり、"パンは人間の肉よりおいしい"と気づかせたことが、パンづくりを盛んにしたといわれる。その盛んさも、並のものではなく、紀元前2500年に200種の発酵パンが焼かれていた。紀元前2500年第5王朝テイ王の墓には、穀物倉から麦をとりだす、石臼の中で麦をつきくだく、くだいた穀粒をふるいにかけて、さらに石の上でつく、パン生地をまぜる、パンを焼く鉢を熱し、その中に生地を詰めて燒き、焼けたパンをとり出す、農場の役人にパンを引き渡すといった、パンづくりの工程がいきいきと描かれている。

発酵パン 発祥の地「エジプト」
パン生地の発酵は、新石器時代の終わり頃、各地で同時に偶然に発見されたようだが、紀元前2000年の酵母がエジプトから見つかったり、メソポタミア人が、エジプト人を「パンを食べる人」とよんでいたことから、私たちになじみ深い発酵パンの発祥地はエジプトといえるだろう。古代エジプトのパンはギリシャに紀元前800年頃伝わり、さらにローマに伝わった。紀元前312年といえば、ローマ最初の軍用道路アッピア街道の建設がはじまった年だが、この時すでにローマ市には254人のパン屋がいて組合をつくり、パン学校も経営されていたという。一方、紀元前146年カルタゴを滅してから、ローマで粉挽きは粉屋、パン焼きはパン屋という分業化がはじまったという説もある。いずれにしても、遠征を重ねたローマ軍にとって、持ち運びのできる食料であるパンは、ローマの生命であったにちがいない。ローマ滅亡後も、ローマの宗教であったキリスト教の伝播とともに、協会、修道院、領主を中心として製パン技術が、ヨーロッパ各地に伝えられた。その後アメリカへはイギリスから、日本へは1543年、種子島に漂着したポルトガル人が伝えた。鉄砲という武器と共に伝わったことになる。織田信長はワインと共にパンを気に入っていたというが、徳川時代に入ってキリスト教とのかかわりから、パンづくりも禁じられた。幕末に水戸、薩摩、長州各藩がパンを真剣にとりあげたのは、軍用の携帯食としてだったという。

無発酵パンが「パンの先祖」
パンにはもうひとつ無発酵からできる平らなパンの歴史がある。こちらの方が、パンの原始的な形であり、7千年ほども遡ることができる。西アジアに発生したムギ食文化は、麦の殻をとり砕いて水で煮る粥を食べていたが、そのお焦げを発見した時に、ひとつの転機を記したといえる。粥よりも保存性があり、携帯できるというのは画期的なことであったにちがいない。北欧の海賊ヴァイキングは、平燒きパンによって海上進出が可能になった。焼く、ということの発見が、もともと粒のまま煮ても硬く、粉食に適していた小麦と結びついて無発酵平燒きのパンとなった。発酵という、パン史上最大の発見の後も、この系統のパンは6000年の昔ながらに無発酵のまま現在もインドやイラン、イラクに続いている。それは気候風土や、経済状態に適していたからであろう。パンを焼く回数が少なく、保存期間が長くなれば、発酵という不安定さのない無発酵パンの方がよい、ユダヤ教では無発酵パンが清浄なものとされているのもうなずける。パン生地が自然に発酵するのを待っていた時代、発酵が失敗するのは魔女の仕業と思われていた。それでこねあげるとすぐ、生地に十字を描いて魔よけにした。パン生地が自然に発酵してふくれることは、さぞや不思議で、驚くべきことでありつづけたにちがいない。なにしろフランスのパスツアーによって、酵母菌がはじめて発見されたのは、1857年である。今からたった150年ほど前のことにすぎない。酵母菌の生活作用で発生する炭酸ガスが、小麦粉に特に豊富なねばりけ、グルテンの中にとじこめられて、パンをふくらます。何千年間もそういう原因を知らないまま大いに利用したり、利用しないことを選んだり、パンづくりの歴史は酒づくりの歴史同様人間の知恵に脱帽させる。古いようで新しく、新しいようで古いパンの歴史は、人間の歴史そのものである。

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(株)ソニー・マガジンズ
功刀 良吉
フィールド・アンド・リバー・アソシエイション
「HOME BAKING パンの本 ホームベーキングを楽しむ」より引用
 

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